概要

電気車の起動時、架線から供給される電圧をそのままモーターに流すと大電流となってしまうため、電気鉄道の黎明期から行われていた方式として、モーターと直列に抵抗器を挿入する抵抗制御があります。モーターが回転を始めると逆向きの力である逆起電力が発生し、速度上昇に従いその力も増してゆくため、徐々に抵抗を抜きモーターに掛かる電圧を増やすことで逆起電力との差分がモーター出力(トルク)となり加速を続けます。このように一定の架線電圧を車載の抵抗器で可変制御する方式は電機子チョッパ制御や VVVF インバーター制御が普及する1970〜1990年代まで長く採用されました。

なお抵抗制御といっても、実際のところは以下に挙げる複数の制御方法が組み合わされています。

  • 抵抗値を徐々に抜くことで端子電圧を上げる、本来の意味での抵抗制御
  • モーター繋ぎを4台直列から2台ずつの並列に変えることで端子電圧を2倍にする組み合わせ制御(黎明期はシーリスパラレル(Series parallelとも呼ばれた)
  • 並列切り換え後に抵抗をすべて短絡したのち、界磁の磁束を減らすことで逆起電力を減らす弱め界磁制御

ただし、駅間距離が短く高速運転が重視されていなかった東急電鉄では、旧性能車の時代の弱め界磁制御は一部車種のみの限定的な採用であり、本格的な導入は高性能車の旧5000系以降となります。このため旧性能車時代の進化としては、開通当初に路面電車タイプの直接制御で始まった方式からまもなく間接制御が導入されて以降はシステム面での大きな変化はなく、主制御器の接触器の切り替え方法が単位スイッチからカム軸になったり、ノッチ数を増加させた多段式制御が導入されたりといった内部構造の変化が中心となります。

旧性能車の主制御器一覧
形式 製造所 搭載車種 登場年 接触器
直接制御 東洋、GE 等 デハ1形、6形、モハ15形、電動貨車 1922年
M(マスコン C-87B) GE デハ20形、30形、40形ほか 1924年 電磁単位スイッチ
PR-150 日立 デハ100形、200形、300形ほか 1925年 電空カム軸
ES-155 東洋 モハ120形、130形 1928年 電動カム軸
ES-504 東洋 デハ306 1928年 電動カム軸
PR-200 日立 モハ500形、300形(クハ1形電装車)ほか 1928年 電空カム軸
ES-158 東洋 モハ1形ほか 1932年 電動カム軸
PR-1Y1 日立 モハ510形(初期車) 1932年 電空カム軸
PB-200 日立 モハ510形(後期車)ほか 1934年 電空カム軸
MC-200 日立 モハ150形ほか 1937年 電動カム軸
MMC-200 日立 モハ1000形ほか 1939年 電動カム軸
M(マスコン C-36D) GE、芝浦[1] デハ1100形 1943年 電磁単位スイッチ
HL 三菱(?) デハ1050形 1946年 電空単位スイッチ
CS-5 東洋[2] デハ3700形、3800形ほか 1948年 電空カム軸
MMC-10 日立 デハ3550形ほか 1940年台後半 電動カム軸
  • GEGeneral Electric の略、芝浦は芝浦製作所の略、東洋は東洋電機製造の略、日立は日立製作所の略。
  • 日立製作所の主制御器(PR, PB, MC, MMC)は後年、旧性能車同士で車種を跨いで交換されたケースが多数存在する。
  • 機器の登場年は東急電車(前身の目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄を含む)でその機器が初めて搭載された車両の入籍日(譲受車や転籍車は東急線での使用開始日)ないし改造日を基準としており、機器の実際の製造初年とは限らない。とくに国鉄制式の CS-5 型は、機器としては上表より10年以上早い1932年に登場していた[3]

直接制御車

目黒蒲田電鉄の開業に向けて1922年に製造されたデハ1形、および翌1923年に増備されたデハ6形は単行運転を前提とした直接制御で製造されましたが、1932年に連結運転のため、運転台のマスコン指令を主制御器(複式制御器)で受ける間接制御に改造されました[4]

間接化当初は後述する東洋電機製造のディッカーシステムでしたが、1941年に鉄道省払い下げ車と制御装置を交換し、アメリカ・General Electric 社タイプの M コントロールとなっています。なお、モハ9〜10 の2両のみ HL 式とされた記事もありますが[5]、詳細は不明です。

一方、池上電気鉄道では開業初期に乙号車(デハ1〜2)、甲号車(デハ3〜6)、丙号車(デハ11〜12)の3タイプが用意され、いずれも直接制御式でした。このうち新造車である甲号車はデハ3〜4 とデハ5〜6 で車体寸法や台車、主電動機出力などが異なりますが、電気器は中古品を搭載していたため[6]さらに車両ごとの個体差があり、当時の鉄道省申請書類によるとデハ3 は東洋電機製 DB1 式 K8 型、デハ4 は GE 社製 K10 型が搭載されていたようです[7](デハ5〜6 は不明)。池上電気鉄道は1934年に目黒蒲田電鉄へ吸収合併されますが、それより以前に乙号車は譲渡、丙号車は廃車となっていたため、甲号車のみが引き継がれてモハ15形となりました。引き継ぎの前後ともに大きな工事記録がないため、最後まで直接制御のままであったものと思われます。

また、合併前に伯陽電鉄(後の日ノ丸自動車)へ譲渡された乙号車のうち1両は鉄道路線廃止後も現地で保存されており、マスコンは東洋電機製 DB1 式 K4 型が残されています。ただし両端の運転台で固有番号が連続しておらず形状も異なることから、少なくとも一方は製造当初からのオリジナルではなく交換されたものと思われます。

東洋電機製造 DB1 式 K4 型マスコン(日ノ丸自動車デハ203 ← 池上乙号車)

この他、目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄では1923年から1925年にかけて有蓋電動貨車・デワ1形が2両、無蓋電動貨車・デト1形が6両製造されましたが、これらも直接制御で製造されました。このうち、東急改番後のデワ3002, 3003 のみ晩年の時点で K-14 型を装備していたとの記録が残されていますが[8]、その他の車両のマスコン形式は不明です。

池上電気鉄道でも1928年に無蓋電動貨車・デト1形が1両製造されました。この車両はどういうわけか竣功届が提出されておらず、書類上は存在しなかった不思議な車両ですが、設計書によればこれも直接制御とされています[9]

鉄道省払い下げ車(目蒲&東横時代)

目蒲線の全通間もない1924年には乗客増加による車両不足のため省線電車を使用することとなり、山手線、中央線の 1200V 昇圧により不要となった木造ボギー電車デハ6260形4両を借り受け(同年中に譲受)、目黒蒲田電鉄デハ20形となりました。続けて翌1925年にも同型の8両が譲渡されてデハ30形に、さらに1926年にはデハ6285形4両が譲渡されデハ40形となりました。

さて、省線電車(甲武鉄道引き継ぎ車を除く)のうちデハ6260形(当初は鉄道院ホデ6110形)の初期車までは直接制御式で製造されたものの、その後の増備車は間接制御式となり、イギリス・Dick, Kerr 社、およびアメリカ・Westinghouse Electric 社と General Electric 社の舶来品による制御装置が搭載されていました。これらはいずれも電磁石に励磁することで主制御器内の接触器を動作させる電磁単位スイッチ式です。鉄道省時代に換装工事を受けて1923年までに GE 社タイプの M コントロール(マスコン C-87B 型、手動進段)に統一されており[10]、すなわち目黒蒲田電鉄における初の間接制御車ということになります。

デハ40形増備の翌年(1927年)には早くも他私鉄への再譲渡が開始され、モハ30形は全車譲渡、モハ40形も譲渡と残存車の改番による形式消滅の結果、モハ20形21〜24 とモハ25形25(モハ42 を改番)の5両が残ることとなりました。

一方、池上電気鉄道でもデハ6310形10両を譲り受けデハ20形として使用しており、1934年の目黒蒲田電鉄との合併に伴い番号重複を避けるためモハ30形(2代目)へと改番されています。

こうしてモハ20形4両、モハ25形1両、モハ30形10両の陣営になった後、半鋼体化改造が始まり、まず1936年に4両が電装解除されサハ1形となり、続いて1937年には5両がモハ150形へ改造されたのですが、車体改造だけでなく制御装置も後述する日立製作所の電動カム軸タイプに換装されました[11]。残る6両はしばらく使用停止されていたようですが[12]、これも輸送力増強のため1941年に改造され、制御装置はモハ1形と交換する形で東洋電機製造のディッカーシステムが搭載されました[13]

目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄時代の鉄道省払い下げ車一覧
鉄道院/鉄道省 前身私鉄 改造前形式 改造後形式 備考
ホデ6110形→デハ6260形 デハ20形 モハ150形
デハ30形(初代) 全車譲渡
ナデ6110形→デハ6285形 デハ40形 モハ42以外譲渡
デハ40形→モハ25形 モハ150形 モハ42のみ
デハ6310形 池上デハ20形 モハ30形(2代目) モハ150形
サハ1形
  • 鉄道院の車両は1913年に「ホデ」→「ナデ」への称号変更が行われた。

日立・電空カム軸(PR, PB)

鉄道省払い下げ車の導入と並行して1925年には新造車デハ100形(後のデハ3100形→サハ3100形)が増備され、間接制御式として日立製作所の PR-150 型が搭載されました。鉄道省払い下げ車とは異なり、圧縮空気によるエンジンでカム軸を回転させることで接触器を作動させる電磁空気カム軸(電空カム軸)の自動進段タイプで、型番の数字は 150㏋ の主電動機4台を制御することからの命名です。これは本来 1500V 用であり、この時点から将来の昇圧を見越していたことが覗えます。なお、PR-150 型は目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄のほか鉄道省へも大量採用され[14]、後に国鉄制式 CS-2 型とされました。

これを皮切りに、1928年のモハ500形(後のデハ3400形)には容量を拡大した PR-200 型(後の国鉄制式 CS-3 型)、そして1931年のモハ510形(後のデハ3450形)の増備途中から PR-1Y1 型や空気機構部分を改良した PB-200 型といった具合に、ほとんどの車両に日立製作所の機器が搭載されました。

PR-1Y1 型とは変わった形式名ですが、故障が頻発していた在来品に対して、当時1年に1回だった車両の定期検査時においてのみ部品修繕を行えば良いという目標のもとに開発された[15]ことからの命名です。

電空カム軸制御器 PR-150 型[16]
電空カム軸制御器 PR-200 型[17]
メンテナンスフリーを目指して開発された PR-1Y1 型(試作品)[18]

東洋電機・ディッカーシステム

前述のとおりデハ100形以降の新造車は一部の例外を除き日立製作所の制御装置が搭載され、この傾向は吊り掛け車の終焉まで長く続くことになるのですが、新造車以外では東洋電機製造の機器を搭載したケースも若干数存在しました。同社はイギリス English Electric 社と技術提携を結んでおり、その技術によりカムシャフトを電動機で回転させる電動カム軸式の制御装置を国産化、EE 社の前身である Dick, Kerr 社の名前からディッカーシステム(Dick Kerr Systemと呼ばれていました。

目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄に採用された機器の一覧はページ冒頭の表にも記していますが、下記により詳しいデータを示します。

旧性能車における東洋電機製造の主制御器一覧
形式 搭載車種 事由 搭載時期 備考
目蒲、東横 東急
ES-155 モハ120形 デハ3250形 池上電気鉄道の引継車 1928年〜廃車
モハ130形 1930年〜廃車
ES-158 モハ1形 直接制御車の間接化 1932年〜1941年
モハ150形 デハ3300形 鉄道省払下車の半鋼体化 1941年〜戦後 モハ1形と交換、後に日立 MMC 化
ES-504 デハ300形 デハ3200形 クハ1形の電動車化 1928年〜 ? デハ306 のみ、後に日立に統一(?)

ES-150 系列は架線電圧 600V 用で遮断器もカム軸動作としたもの、ES-500 系列は架線電圧 1500V 対応の大型制御器で遮断器は単位スイッチ式となり[19]、その最初の製品である ES-504 型は新京阪鉄道(現:阪急電鉄)の P-6 形電車に採用されたのが有名なところです。

関西地方では新京阪以外にも京阪電気鉄道や阪和電気鉄道(現:JR阪和線)などディッカーシステムを多く採用した私鉄・公営交通が複数存在し[20]、関東地方でも東武鉄道をはじめ複数の私鉄にまとまった採用例がありましたが、目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄では限定的な採用に留まり、日立製が多くを占める中で異端の車両となっていたため、池上電気鉄道の引継車で ES-155 型を搭載していたモハ120形、モハ130形(東京急行電鉄成立後はいずれもデハ3250形に統合)は第二次世界大戦後まもなく運輸省63形割り当て(大東急時代の(旧)小田急電鉄線と相模鉄道線で使用)およびデハ3700形、クハ3750形新製車の代わりに地方私鉄への供出対象とされてしまったのは周知の話です。

東急デハ3250形の供出車はすべて解体されたものと思われますが、名古屋鉄道と北陸鉄道の保存車に同型の現存例があります。

現存する ES-155 型(名古屋鉄道モ755)

一方、直接制御式だったモハ1形は1932年に連結運転のため ES-158 型を搭載し、1941年には鉄道省払い下げ車の半鋼体化改造の後期改造車(モハ156〜161)と互いに制御装置を交換されました。モハ150形は東京急行電鉄成立後にデハ3300形となり、デハ3250形が地方譲渡された後も活躍を続けましたが、やがて日立 MMC に統一されて東急線からディッカーシステムは消滅しました。ところで1958年に東横車輛工業(現:東急テクノシステム)の碑文谷工場で江ノ島鎌倉観光(現:江ノ島電鉄)の100形が車体更新を受けて304号連接車に改造されましたが、その際に間接制御化が行われて ES-158 型を搭載、続けて1960年に新造扱いで登場した305編成も同様に ES-158 型が搭載されました。当時の江ノ電は単行車100形が直接制御、その他の車両は間接制御の ES-251 型に統一されていた中で[21]、碑文谷工場で改造された車両だけが旧式の ES-158 型を搭載したことからも、東急デハ3300形の発生品を転用したとは考えられないでしょうか。

さて、時系列は前後しますが、これらとは別に1両だけ ES-500 系列が採用された車両が存在しました。目黒蒲田電鉄において1927年にデハ300形とクハ1形が5両ずつ製造されたものの、すぐにデハ303 がデハ307 に改番され[22]、翌1928年にはクハ5 が電動車化されてデハ306 となりました。デハ303 の改番に際して 306 の番号を空けていたことから、クハ5 の電装は当初から折り込み済みの計画だったものと思われますが、この際なぜか他車の日立 PR-150 型に対してデハ306 だけは東洋電機 ES-504 型が搭載されたのです。もともとクハ時代から電動車に合わせて運転台マスコンは日立製のものを搭載していたため、この改造に際しては主制御器の追設だけでなくマスコン交換も必要になったわけで[23]、わざわざそのようなことをしてまでディッカーシステムを導入したのはいかなる意図があったものか気になるところです。なお、同車は電装竣功直後に東京横浜電鉄へ譲渡されており、その際の売買契約において車両代金のうち電機品に関する部分は(目黒蒲田電鉄を経由せず)東京横浜電鉄から東洋電機製造へ直接支払うものとされたため[24]、東京横浜電鉄側においてディッカーシステムの導入意志があったものと推測されます。いずれにせよ他車への波及はなく、1930年に残りのクハ4両が電動車化された際はふたたび日立製が採用され、異端車となっていたモハ306 も後に日立製へ統一されたようです[25]

新京阪鉄道 P-6 形電車にも搭載された ES-504 型[26]

モハ150形(デハ3300形)の制御装置の変遷

前述のとおり鉄道省払い下げ車の半鋼体化改造は3回に分けて行われ、サハ1形(東急サハ3350形)4両とモハ150形(東急デハ3300形)11両になりました。

鉄道省払い下げ車の半鋼体化改造
竣功時期 改造前車号 改造後車号 両数 改造後制御装置
1936年度 目蒲モハ36–39 (旧)東横サハ1–4 4両
1937年度 目蒲モハ21、モハ25、モハ30–31, 35 目蒲モハ150–152, 154–155 5両 日立 MC-200
1941年度 (新)東横モハ22–24、モハ32–34 (新)東横モハ156–161 6両 東洋 ES-158

このうち最終改造グループのモハ156〜161 については、当初計画では制御装置の換装をせず半鋼体化後も鉄道省時代の M コントロールを使い続ける予定だったものが[27]、途中で ES-158 型への換装へと計画変更されています[28]。そしてモハ156〜161 の竣功後まもなくしてモハ1形(モハ1〜10)の改造工事が行われ、主電動機や制御装置が互いに入れ替わる形で換装されました[29]。モハ1形はこの直後に全車両が神中鉄道(現:相模鉄道)へ譲渡されていますから、東京横浜電鉄としては手放すつもりの老朽車に鉄道省時代からのより古い機器を押し付ける思惑があったものと思われます。

さて、ES-158 型制御装置をもともと搭載していたモハ1形は10両が在籍していたのに対し、転用先であるモハ150形のうち1941年度改造車は6両ですから余剰が発生したはずです。しかも1941年4月24日付けの竣功届はモハ156〜160 の5両分で提出されており[30]、モハ161 のみ竣功が遅れたことが覗えます。同車は第二次世界大戦後まで T 車代用になっていたようですから[31]、竣功時点では制御装置は取り付けられていなかった可能性もあります。

戦時中は目蒲線、大井町線配置車も T 車扱いとされ、電動車として動いていたのは池上線に配置されていたデハ3302〜3305 の4両のみであった証言もあり[32]、さらに1945年の大空襲ではデハ3302, 3303 が全焼被害を受けたため[33](後にクハ3230形として復旧)、これらの混乱の中で機器転用も多く行われたのではないかと推察されます。1950年時点の資料では残存車全9両が ES-158 型とあることから[34]、昇圧前の時点でデハ3300形内での機器統一が図られたと見ることができるでしょう。

日立・電動カム軸(MC, MMC)

東洋電機製造に遅れて日立製作所も1936年には電動カム軸式を開発し、1937年に鉄道省払い下げ車を半鋼体化して改番されたモハ150形(後のデハ3300形)や1939年の新造車モハ1000形(後のデハ3500形)に MC-200 型が採用されました。大きな特徴を2つ挙げると、一つは力行の並列最終段からノッチオフした際、従来の電空式ではカム軸を逆転させていたものの、本品では逆転せずさらに正転させることで接触器の開閉回数を半減ひいては摩耗減少につながり、回路の簡素化も実現しています。もう一つは連結運転時に各電動車の進段タイミングを合わせるため、限流継電器に同期機能を付けたことで力行時の衝撃を緩和していることです[35]

続いて1937年頃には直並列で計20ノッチを超える多段式制御の MMC 式制御器が開発されました。カム接触器をカム軸の上下2段に配し、またカム軸は直列制御で1回転の後、並列切り換えを行いさらに1回転する一方向2回転制御を行うことで従来の2倍以上のノッチ数を実現しながらも小型軽量化を達成した画期的なもので[36]、東京横浜電鉄モハ1009, 1010 の2両を皮切りに21ノッチの MMC-200 型が搭載されました[37]

多段式制御を実現した MMC-200 型[38]

戦後の新車としては後述するデハ3700形が1948年に新製された一方、同じ頃に日立では MMC-200 型の改良型である MMC-10 型(昇圧後は MMC-H-10 型)が開発され、デハ3700形を含め在来型を置き換えてゆきます。これにより1970年代中には旧3000形グループの主制御器は MMC-H-10 型への統一が図られました。

旧性能車で最後に導入された MMC-H-10K 型、機器単体で見れば8000系1次車より新しい(十和田観光電鉄モハ3603 ← 東急デハ3655)

MMC-H-10 型は東急電鉄から旧性能車が引退した後も十和田観光電鉄などの譲渡先のほか、変わったところだと豊橋鉄道経由で京福電気鉄道・福井本社に送られたと推測される個体がモハ1101形に搭載され、えちぜん鉄道になった後もMC1102号が2014年10月まで活躍していましたが[39]、現在は実稼働個体は消滅し、保存車や博物館展示品に数台が残るのみとなっています。

日本初の多段式制御装置の採用電車は?

東京横浜電鉄モハ1000形は日本で初めて多段式制御装置を採用した電車であると紹介されることがありますが、日本初であることには疑念を抱いています。

モハ1000形は東京横浜電鉄が10両(モハ1001〜1010)、目黒蒲田電鉄が12両(モハ1011〜1022)を発注し、1939年5月頃に完成し、運用入りしていたようですが[40]、どういうわけか竣功届は両社合併直後の1939年10月12日に提出されています[41]。その2年前の1937年に登場したモハ150形では制御装置に電動カム軸式の MC-200 型が採用されていながら、モハ1000形では当初はなぜか旧式の電空カム軸式 PB-200 型が搭載される計画となっていたものの、現車完成と同時期(1939年5月)に東横、目蒲の両社から設計変更申請が提出されており[42]、実際には最初から電動カム軸式が搭載されていたものと思われます。

さて、多段式の MMC 式制御装置については日立評論1937年12月号に製品紹介記事が掲載されており[43]、そこでは 1500V・125㏋ の主電動機4台を接続した試験結果も示されていることから、その時点で少なくとも試作品としては完成していたようです。そして日立評論1939年1月号では改良を加えて小型軽量化したタイプが完成したとして形式名 MMC H-200 型、また鉄道会社として東京横浜電鉄と目黒蒲田電鉄の名前が挙がっているため[44]、1938年度には完成品が複数台納品されていたものと思われますが、現車搭載の有無は情報がなく不明です。

一方、日立評論1939年7月号では鉄道省と東京横浜電鉄の指導を得て MMC-200 型を完成させたとして改めて多段式制御器の製品紹介記事が掲載されており[45]、これは日立評論1940年1月号において昨夏に東京横浜電鉄へ2台が納品され、営業線で使用中とされています。

このように数度の改良を経て現車搭載に至ったわけですが、制御段数を在来品から倍増させたのは当時としては車両認可に関わる大きな出来事だったようで、鉄道省に対して認可申請を行うことになり[46]、改めて設計変更(機器換装)の竣功届提出を経て[47]、1940年8月の監査において本線試運転での在来型制御装置(MC-200 型か?)との比較が行われた記録が残されています[48]

ここまでの流れを時系列でまとめると以下のようになります。

モハ1000形車両と MMC 式制御装置の導入に至る流れ
時期 出来事 備考
1937年頃 日立 MMC 式の試作品完成
1938年度 日立 MMC 式の改良品完成 東京横浜電鉄と目黒蒲田電鉄へ複数台を納品(現車搭載の実績は不明)
1939年5月頃 モハ1000形(1001〜1022)が完成 営業運転に入っていた可能性が高いが、この時点では竣功届は出されず
1939年夏 日立 MMC 式の再改良品(?)完成 東京横浜電鉄へ2台が納品され営業線で使用(試運転かそれとも営業運転入りしたのかは不明)
1939年10月12日 モハ1000形(1001〜1022)の竣功届提出 10月1日に目黒蒲田電鉄が(旧)東京横浜電鉄と合併し、同16日に(新)東京横浜電鉄へ商号変更する狭間の時期
1940年1月31日 モハ1009, 1010 への多段式制御器使用を認可申請
1940年4月27日 モハ1009, 1010 の設計変更の竣功届提出
1940年8月23日 モハ1009, 1010 の竣功監査を実施

一方、1937年登場の九州鉄道(現:西日本鉄道)20形(後の200形)に芝浦製作所(現:東芝)が開発した26ノッチの PA 式カム軸制御器が搭載されています[49]。製品の完成として芝浦 PA 式と日立 MMC 式のどちらが早かったかは分かりませんが、納品と現車搭載は九州鉄道が先行したと言えるのではないでしょうか。

鉄道省払い下げ車(大東急時代)

戦時体制下において京浜電気鉄道(現:京浜急行電鉄)と小田急電鉄を合併して東京急行電鉄が発足し大東急と呼ばれていた時代、各営業局間で施設や車両の融通が行われましたが、その一環で新宿営業局(現:小田急電鉄)で使用されていた鉄道省払い下げ車が入線したことがあります。これは1943年に通勤輸送強化のため、玉川線の二子読売園(現:二子玉川)〜溝ノ口(現:溝の口)を改軌して大井町線列車を乗り入れるようにしたことに伴う車両増備として、デハ1100形3両を 600V 降圧化のうえ転局させたものです。

この車両は1938年に当時の小田原急行鉄道(現:小田急電鉄)が鉄道省モハ1形の払い下げを受けて小田急モハ51形とした木造電車で、元をたどれば京浜線(現:JR 京浜東北線)の増備車として製造されたデハ33500形となります。製造当初は GE 社タイプの M コントロール(マスコン C-36D 型)が装備されており[50]、電磁単位スイッチ式という意味では目黒蒲田電鉄の払い下げ車と同様ですが、自動進段式になった違いがあります。

わずか3両の所帯でありながらラッシュ時用とするためか目蒲線と大井町線に分かれて配属されましたが、両線での使用は短期間に終わり、1944年には相模鉄道へ貸与されて神中線(現:相模鉄道の本線)の 600V 区間(横浜〜二俣川)で使用されることとなりました。その後まもなくして 1500V 昇圧改造が行われ、その際に日立 PB-200 型などのカム軸式に換装されたようです[51]。とくにデハ1102→モハ2002 には一時期 MMC-H-200 型が搭載されていたようで[52]、ダブルルーフの木造車体に最新型の多段式制御器を搭載した姿はさぞミスマッチであったものと思われます。

Westinghouse Electric(HL)

第二次世界大戦直後の車両増備は、予定されていた新製車デハ3550形(1953年に登場した後のデハ3550形とは別物)が戦災被害の大きかった井の頭線に投入され、また運輸省63形の割り当ては20m車を使用できる(元)小田急電鉄線と相模鉄道線(当時は東急電鉄に経営委託中で厚木線と呼称)に振り分けられたため、東横、目蒲、大井町、池上の(元)東京横浜電鉄線においては後述の規格型電車の新製が行われるまで、以下のように細々とした増車があったのみとなります。

  • 厚木線の電車線 1500V 統一に伴う貸出車の復帰(デハ3400形4両)
  • 厚木線の気動車改造電車の短期使用(63形割り当てに対する供出予定車デハ1050形2両と東横キハ1形改造で出戻りのクハ1110形2両)
  • (元)京浜電気鉄道(現:京浜急行電鉄)車両の復旧扱いで2両を車体新造(クハ3660形)
  • 井の頭線から4両の転籍(デハ1366、デハ1401、クハ1553〜1554)

これらのうちデハ1050形は、もともと茅ヶ崎 – 橋本間を全通させた相模鉄道が横浜線八王子乗り入れのために増備したディーゼル電動客車・キハ1000形で、神中線(厚木線)の電化に際し電車化された車両です。電車化改造時の資料に乏しく、当時の詳細な諸元は不明な部分も多いのですが、目撃情報によれば東横線運用時代および日立電鉄譲渡後には三菱電機製の HL タイプのマスコンが搭載されていたとのことで[53][54]、制御装置もアメリカ・Westinghouse Electric 社の系統である HL 式であったものと思われます。HLとは同社の分類において手動進段(H)かつ架線電圧電源(L)の方式を意味するもので、東急電車では軌道線(玉川線)車両に広く採用され、世田谷線では2001年の旧型車全廃まで使用されていたことでお馴染みですが[55]、鉄道線の旅客用電車ではそれまで縁がなかったものとなります。

また、1947年に井の頭線から転籍された4両のうち、デハ1366 は小田原急行鉄道(現:小田急電鉄)で新製された車両であり、旅客用ドアが片側2つであるなど東急線では異色の存在でした。制御装置は製造当初は HL 式でしたが、井の頭線時代の1945年に渋谷駅で起こった事故からの修復に際して PB-200 型に換装されており、そのことが影響して同じく PB-200 型化されていたデハ1401 とともに東横線への転籍対象に選ばれたとされています[56]。しかし鉄道省申請書類では転籍後しばらくしての1951年に行われた改造工事(片運転台化&3ドア化)において HL 式を PB-200 型に交換したとあるため[57]、書類上の記録と実態が異なっていたことになります。

鉄道省型(CS-5)

前述のとおり第二次世界大戦直後の車両増備は限定的なものであり、本格的な増備は終戦から3年後の1948年より始まった省線車両の復旧、およびデハ3700形、クハ3750形の新製でようやく再開となりました。

その新製車は運輸省(現:国土交通省)の方針により定められた「私鉄郊外電車設計要項」のもとに車体構造や電機品が指定された、俗にいう運輸省規格型電車であり、デハ3700形の制御装置には国鉄制式の電空カム軸式 CS-5 型が採用されました。東急の新製車の制御装置には日立製作所の機器が用いられるのが常であったところ、当時の制御装置の選定基準において日立 MMC 式が除外された制約の中で[58]、在来車における PR-150 型(国鉄制式 CS-2 型)や PR-200 型(国鉄制式 CS-3 型)の採用実績から、指定機種の中でそれらにもっとも近似する CS-5 型が選ばれたものと思われます。

1950年には東横線の急行運転が一時的に復活しますが(昇圧準備のため1952年に休止)、その約半年後にはデハ3700形に弱め界磁機能が取り付けられました[59]。この時設置された界磁制御装置はこれも国電タイプの CS-9 型で、当時の東急電車では唯一の弱め界磁運転でしたが、この時はデハ3500形など他車種も混用で急行列車に充当されており、高速運転性能の効果はさほど発揮できなかったとの評価もありました[60]

1953年には吊り掛け駆動の鉄道線用電動車としては最後となるデハ3800形が製造されましたが、これも界磁制御装置付きの CS-5 型が搭載されました[61]。デハ3700形製造時とは異なり使用機器の縛りは解消されていましたが、急行運転復活を見越して弱め界磁機能のない日立 MMC 式を避ける意図があったのでしょうか。実際、1955年に再度急行運転が復活した当初は最新鋭の5000系のみならずデハ3700形やデハ3800形も急行列車に充当されたようです[62]

しかし結局、デハ3700形、デハ3800形とも早期に日立 MMC 化され弱め界磁機能も撤去された一方、1950年台後半にデハ3400形と荷物電車デワ3041 が CS-5 型化されており、機器転用が行われたものと推測されます。また1969年に2両目の荷電として改造されたデワ3042 にも CS-5 型が搭載されましたが、デハ3400形はまだ全車健在だった時期であり、デハ3700形、デハ3800形の発生品を10年以上保管していたのか、それとも改めて他事業者から調達したものか謎が残るところです。

脚注