新奥沢駅跡近くの空き地と謎のパイオニア台車車輪

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昭和の初め、池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄との接続を望み、雪ヶ谷駅近くから分岐し田園調布駅(正確には駅の北東で今のバスロータリーの近く)とを結ぶ支線を計画したものの、紆余曲折あって始発駅は雪ヶ谷駅、終着駅は名勝地や他路線との接続もない場所(新奥沢駅)に変更され、1928(昭和3)年~1935(昭和10)年のわずか7年間の営業を行ったのみであっけなく廃止されました。

この路線の廃線跡は、現在では地図や航空写真、あるいは実際に線路敷を辿ってみても鉄道施設を思わせる痕跡はほとんど残っていません。後年になって終点の新奥沢駅跡地に玉川地団協(玉川地域活動団体連絡協議会)による小さな石碑が建てられましたが、この石碑のある場所から住宅街の小さな道を少し入ったところ、直線距離にしておよそ50mほどの場所に少し怪しげな空き地があり、いつの頃からかそこにパイオニア台車の外側ディスクブレーキを装備した車輪が4台(1両分)置かれています。

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写真1:「新奥沢駅跡」と書かれた石碑
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写真2:新奥沢駅跡にあるパイオニア台車の車輪(2019年10月)

車輪の奥には主電動機が置かれているのも見えますね。新奥沢駅跡と車輪が置かれた空き地の位置関係を以下に示します。

図1:新奥沢駅跡周辺の空中写真(2017(平成29)年5月撮影のものを加工)

空中写真は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス(mapps.gsi.go.jp)より、利用規約に則り転載。

なぜここに車輪が置かれているのか(新奥沢駅と関係はあるのか)、またこの車輪はどの車両のものなのか、簡単にですが調べてみました。

新奥沢線の名称

本題に入る前に、いくつか前提条件を書いておかなくてはなりません。雪ヶ谷―新奥沢を結んでいた池上電気鉄道の支線は戦前の短期間で廃止されたこともあってか残された資料や写真は少なく、その実体は謎に包まれており、正式な路線名すらよく分かっていない状況です。

多くの方は「新奥沢線」という名称を聞いたことがあると思います。しかし、当時の公文書でその名前が書かれた例はなく、ほとんどは「調布線」「国分寺線」「奥沢線」となっています。これらは同じ時期の文書に複数の名称が混在していたり、それどころか誰が名付けたのか「玉川線」(もちろん玉川電気鉄道の路線とは別物)と記述された文書すら存在する始末で、統一された名称など存在しなかったのではとも思える状況です。

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図2:「調布線工事一部施行ニ付上申書」と書かれた文書(1928(昭和3)年7月18日、池上電気鉄道から鉄道大臣宛)
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図3:「池上電氣鐵道玉川線假設工事施行件」と書かれた文書(1928(昭和3)年8月28日、東京府知事から鉄道大臣宛)
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図4:「目黒蒲田電鉄奧沢支線営業廢止ノ件」と書かれた文書(1935(昭和10)年)

一方、地図では「新奥沢線」が皆無というわけではなく、1929(昭和4)年に測図された田園調布の1/10000地形図(id.ndl.go.jp)では「新奥澤線」の表記が見られます。

さらに大衆向けの媒体としては、雑誌ダイヤモンド第18巻第1号(1930(昭和5)年1月1日発行)(id.ndl.go.jp)では國分寺線雪ヶ谷ー新奥澤間(一部開通)という表現がされていますが、営業当時の図書や雑誌ではこの1件しか見つけられなかったので、あまり参考になりません。

昨今「新奥沢線」の名称が一般化しているのは、1973(昭和48)年に発行された「東京急行電鉄50年史」内の記述が広まったか[1]、もしくは利用者の間で通称として呼ばれていた名前が長い時を経て正式名称かのような扱いになっていったのではないかと考えているのですが、いずれにしても「新奥沢線」の名称は正しいものとは限らないということになります。そのうえで、本記事ではあえて「新奥沢線」と呼びます。

複線か、単線か

続いて、新奥沢線の線路本数についても見解を記しておきます。巷の文献では

  • 複線で計画されたが、実際は開業時から単線だった
  • 複線で開業したがすぐに単線化された

の2つの説が見られます。前者は鉄道ピクトリアルの東急特集号に書かれた記述(著者の肩書きは東京急行電鉄交通事業本部)、後者は東急電車ファンにはお馴染みの面々によって書かれた複数の書籍に記述されているものです。

まずは「当初から単線」説を引用します。

このような状況から,この区間は当初複線で認可を受けたものの,前述の如く短区間であると同時に,枝線であるため利用客もあまり多くを望めないことなどから,線路用地のみを複線分確保し,実際の軌道敷設は単線で建設し,昭和3年10月,運輸営業を開始することができた.

「まぼろしの路線―新奥沢線の建設」鉄道ピクトリアル1977年6月臨時増刊号(No.335)(浅野浩) より

この記事は2018年に発行された鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション40 東京急行電鉄(Amazon)にも復刻収録されています。

次に「途中で単線化」の説を2つ挙げます。

結局、国分寺延長は断念して新奥沢線を単線化することになった。単線化した年月は不明であるが、開通間もなくという事で、昭和4年(1929)中ではないかと考えられる。

鉄道廃線跡を歩くⅦ「池上電気鉄道新奥沢支線【雪ヶ谷~新奥沢】」(関田克孝) より

第一期の開業直後、池上電鉄は新奥沢以遠の延長を断念、線路も単線化した。

回想の東京急行Ⅰ(荻原二郎、宮田道一、関田克孝) より

これに関しては、1931(昭和6)年3月に奥澤線假設工事ノ件(www.digital.archives.go.jp)という単線化工事を申請する公文書が残されています。

奧沢線複線ヲ仮設トシテ單線ニ変更シ雪ヶ谷停車場ニ側線ヲ新設

仮設物使用期限 七.九.一六.

「奥澤線假設工事ノ件」(1931(昭和6)年3月) より
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図5:「奥澤線假設工事ノ件」の手書き文書(1931(昭和6)年3月)

また、同時期に諏訪分駅を停留場から停車場に変更する申請も行われており(すなわち転轍器を設置したことを意味する)、この時点で複線から単線に変わったことは間違いないでしょう。

続いて、単線化に際しての新奥沢駅の配線変化を見てみます(雪ヶ谷駅、諏訪分駅も配線が変わったようですが、この記事の本題と外れてくるので省略します)。建設時に池上電気鉄道が鉄道省に提出した図面がこれ。

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図6:新奥澤停車場平面圖(縮尺六百分之一)

この平面図は東京都公文書館が保管しているもので、請求番号 310.D8.13(www.archives.metro.tokyo.jp)で閲覧できます。

雪ヶ谷方面から複線で来た線路はホーム手前で単線になり、下り列車基準で左側にホームのある1面1線の構造だったことが分かります。ホームの長さは120′-0″(120フィート≒37メートル)ですから、当時の車両で2両分を確保していたのでしょう。駅の用地については、東側(図面下側)に複線化を見込んだものと思われる空間が確保されている他は記載がなく、貨物側線などもないコンパクトな駅を計画していたことが分かります。

先に挙げた「鉄道廃線跡を歩くⅦ」(Amazon)では、単線化の際に新奥沢駅は逆に1面1線から1面2線へと増設してラッシュ時の車両を留置できるようにしたことが略図とともに解説されています。「回想の東京急行Ⅰ」(Amazon)にも同じような略図が掲載されているのですが、両者を比較してみると線路の増設方向が異なっており、「鉄道廃線跡を歩くⅦ」では元のホームをそのままに駅舎側(西側)に線路を増設したように描かれているのに対し、「回想の東京急行Ⅰ」ではホームを造り替えて線路を駅舎と反対側に増設したかのような描かれ方になっています。

図7:「鉄道廃線跡を歩くⅦ」p.106 掲載の新奥沢駅線路配線の変化
図8:「回想の東京急行Ⅰ」p.137 掲載の新奥沢駅線路配線の変化

これに関しては、決定的な証拠として当時の写真が残されています。

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写真3:1933(昭和8)年10月の新奥沢駅前の記念写真(地元在住の毛利隆詮氏撮影)

「とうよこ沿線」の写真が語る沿線 NO.1 時代を映す人々の営み 奥沢特集1(touyoko-ensen.com)より許可を得て転載。

地域の行事の記念写真ですが、奥に線路増設後の新奥沢駅が写っているのが見えます。2本の車両が停まっていますが、右側の車両の先には駅舎があります。これを先に挙げた建設時の平面図と照らし合わせてみると、(単線化時に駅舎の移設やホームの造り替えは行われなかったという前提ですが)新しい線路は東側に確保していた複線用地を活用したのではなく、西側(図面上側)に増設されたものと推測でき、すなわち「鉄道廃線跡を歩くⅦ」の略図の方が正確なことになります。

空き地の所有者

前置きが長くなりましたが、ここからようやく本題である、車輪の置かれた空き地について考察してみます。

奥沢親交会のサイトで当時地元に住んでおられた大島秀麿氏による新奥沢線のこと(www.sinkoukai.net)という体験談が掲載されていますが、それによると1931(昭和6)年の夏休みの時点で新奥沢駅ホームの西側(現在車輪が置かれている土地)は原っぱだったようです。前掲した駅建設時の図面では、ホーム西側は必要最小限の土地しか確保していないように書かれており、すなわち1面2線化に際して新たな土地取得が実施されたのではないかと推測するのですが、このときすでに国分寺延伸の免許は失効(1930(昭和5)年)(dl.ndl.go.jp)していることもあり、さらなる側線や資材置場などのための余分な土地まで確保したとは考えにくいと思います。

次に、新奥沢線が廃止されたおよそ半年後に撮影された空中写真を見てみます。比較までに、冒頭にも掲載した現在の様子も並べました。

図9:新奥沢駅跡周辺の空中写真(1936(昭和11)年6月撮影のものを加工)
図10:新奥沢駅跡周辺の空中写真(2017(平成29)年5月撮影のものを加工)

空中写真は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス(mapps.gsi.go.jp)より、利用規約に則り転載。

廃止半年後の写真を見ると、線路や駅の跡ははっきりと分かりますが、1931(昭和6)年夏時点で原っぱだったと言われる場所には建物が2つ建っているように見えます。ただ、あくまで廃線後の写真なので、この建物が建造された時期が新奥沢線営業中なのか、それとも廃線後なのかは分かりません。

それならばと東京法務局世田谷出張所(houmukyoku.moj.go.jp)で土地の所有者の情報を請求してみました。

まずは周辺の筆界(区画の境界線)を確認してみます。この空き地は住所としては「東京都世田谷区東玉川2丁目40番」になりますが、それを元に公図(地図に準ずる図面)を見てみます。この図には筆界とともに地番が記されており、それによると空き地、および西側に隣接したファイン・サービス(www.fine-s.co.jp)のある土地、さらにその北側の小さなガレージがある土地を含めて「194番7」とのことです。

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図11:新奥沢駅跡周辺の公図

ちなみに、公図を見ると「新奥沢駅跡」の石碑がある駐車場周辺の土地は、今でも線路敷跡がそのまま筆界となって残っているのが分かりますね。

さらに、地番を元に「登記事項証明書」を請求してみると、2014年1月29日に「194番1から分筆」されたことが記録されていました。空き地の東側の土地は最近になって分譲が行われたようで、それに関連してのことと思われます。これについてはRail Magazine 2015年3月号(No.378)(Amazon)の「トワイライトゾーン」に掲載された工藤貴史氏のレポートが詳しいのですが、それによれば分譲前は車輪も隣の敷地の藪の中に置かれていたようです。

土地は個人の所有者によるもので、明治時代からの「土地台帳」も含めて過去の情報も閲覧しましたが、記録が残っている1894(明治27年)以降、一貫して個人の所有です(池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄が所有していた形跡はありません)。

そういうわけで、駅があった当時の原っぱ、現在も残る空き地は東急電鉄が管理するものではなく、電鉄の資材置き場という可能性は薄いと思われます。

車輪を観察する

車輪自体の来歴についても考察してみます。

2015年7月に現地を見に行ったときは、車輪は空き地に置かれた物置の奥にあり、存在だけは確認できたものの公道から詳しく調査をすることはできませんでした。ところが、先日(2019年10月)行ってみると手前に移動しており、至近距離で観察できる状態になっていました。

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写真4:2015年7月時点の様子(写真中央、物置の間に車輪が見える)
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写真5:2019年10月時点の様子

道路に面した1台は駆動装置の銘板が残っていたので見てみたところ、「日立製作所」の名前があり、以下のことが書かれていました。

型式HD-70KA
製造番号838170
歯車比13:85 = 1:6.54
製造年月昭和39年3月

これは東急(旧)7000系の諸元と一致しますね。製造が1964(昭和39)年の7000系日立車といえば、

  • デハ7031~7032、7131~7134(1964年5月25日入籍)
  • デハ7033~7034、7135~7138(1964年9月7日入籍)

が時期的に該当します。このうち、デハ7131~7133の3両は7700系化改造で、またデハ7135~7138は北陸鉄道譲渡改造に際してパイオニア台車を軸ばね台車に換装していますから、これらの車両のいずれかである可能性が考えられます。もっとも、車輪などの部品は検査時に搭載車両が変わるケースもあるので、製造時期からの車号特定の推測は当てにならないかもしれませんが。

また、東急電車以外(PⅢ-701型以外)の可能性についても考えてみます。パイオニア台車を履いた車両で1964(昭和39)年時点に存在した例としては南海6000系と京王3000系が挙げられますが、いずれも外側ディスクブレーキではあったものの主電動機メーカーや歯車比が東急(旧)7000系とは異なります。とくに南海6000系は駆動方式がWN継手式(東急(旧)7000系はたわみ板継手による平行カルダン)という違いもあるので、消去法からしても間違いなく東急(旧)7000系のものと判断できるでしょう。

ところで、現物を観察するといちばん公道寄りの車輪には駆動装置が取り付けられたままなのですが、主電動機の継ぎ手を繋ぐフランジのピン孔には真新しいボルトが取り付けられています。車輪自体はサビでボロボロなのに対し、このボルトは経年による汚れすら見られないので最近締められたものでしょう。目的がよく分かりませんが、いずれにしてもこういったメンテナンス(?)が行われていることもあり、単に放置されているのではなく何らかの意図があって残されているものと思われます。

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写真6:新奥沢駅跡近くのパイオニア台車車輪の継ぎ手フランジ
  • [1]第2章5-2「池上鉄道の沿革」および年表において「新奥沢線」の表記が見られます。