第2回「町山智浩の映画塾!」でまどか☆マギカ等をテーマとしたトークライブ

2月25日、渋谷のユーロライブにて第2回「町山智浩の映画塾!」が開催されましたが、テーマが「押井守監督、新房昭之監督のアニメを語る!」ということで[1]、後半は「まどか☆マギカ」の劇場三部作が取り上げられました。

開催情報を知ったのが告知後しばらく経ってからで、前売券は完売していましたが、開演20分ほど前に並んだところ、当日券の立ち見扱いで入ることができました。

会場入口に貼られたポスター

まず冒頭で「なぜこの『映画塾』でまどか☆マギカを評論することになったか」という話があり、町山さんが去年のアニメアワードに呼ばれて、虚淵玄さんと永井豪さんの3人で座談会をやることになり[2]、作品を観てみたという経緯が紹介されました。

その後、押井守作品の「イノセンス(攻殻機動隊)」[3]、「スカイ・クロラ」についてのトークがあり、開始から1時間半ほどしてから「まどか☆マギカ」の話になりました。

以下、トーク内容のうち、とくに注目したいと思った点を抜粋して紹介します。話の一部を切り取ったりしているので、参加していないと伝わらない部分も多いかと思いますが、近いうちに動画がWOWOW の YouTube アカウントの「映画」再生リスト(YouTube) あたりにアップされるものと思われるので、当日参加できなかった方は合わせてご覧いただければと思います。

2015年3月9日追記WOWOWオンラインのサイトに動画がアップされました。

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編&後編]」<予習編>(YouTube)
「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編&後編]」<復習編>(YouTube)
「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]]」<予習編>(YouTube)
「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]]」<復習編>(YouTube)
  1. 前編「始まりの物語」、後編「永遠の物語」
  2. 新編「叛逆の物語」

前編「始まりの物語」、後編「永遠の物語」

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予習編

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  • 虚淵さんはもともとエロゲーの人。最初はラノベ作家になろうとしたが、自分のやりたい需要がなかったのでゲーム業界に入った。
  • 虚淵さんの作ったゲームのシナリオは、ハーレム等の都合のいい展開の後にバチが当たる。プレイヤーを倫理的に罰する。いいことがあると悪いことがある。
  • 昔の日活ロマンポルノもそんな感じだった。性の怖さを教訓的に教えられる。

復習編

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  • (第10話のほむらのループについて)押井守の「ビューティフル・ドリーマー」の影響?
  • "まどか" を漢字にすると "円"。最初からループものとして名前を決めたのでは。
  • キュゥべえはメフィストフェレスだよね。
  • 鹿目まどかは最終話で全人類のために死ぬ。 → イエス・キリストと同じ
  • 水木しげるの「悪魔くん」が元ネタでは。
  • ほむらは、彼女自身を救うためにまどかが神になったことで、一番好きだったまどかを失う。 → さっきもその話したねw (※序盤での「GHOST IN THE SHELL」の話)

新編「叛逆の物語」

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予習編

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  • ほむらが町から出ようとしても出られない、この町は人工的に造られたものと気付く。 → 押井守「ビューティフル・ドリーマー」
  • (バスのシーンで)出られないことよりも、バスが走っている空間自体が(イヌカレー空間で)変だよw
  • (マユの塔でのキュゥべえ説明シーンについて)絵ではなく登場人物の長ゼリフで説明する。
  • 切通さん「虚淵さんの仮面ライダー鎧武やブラスレイターを見たが、セリフを言ってる時に口ではなく部屋や風景を写している。」 町家さん「こういう演出はエヴァンゲリオン最終回が最初なのでは。」

復習編

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  • (前後編で綺麗にまとまったのに新編が作られたことについて)切通さん「叛逆を上映当時に映画館で見た時は『ムリクリだな』と思ったけど、今回のトークショーのためにもう一度前編から見返したら、実は前後編も含めて一つの話だったような気がしてならない。」
  • 永井豪の「デビルマン」と展開が似てる。「キュゥべえ = デビルマンにおける神」「ほむらの『愛よ』 = 飛鳥了の不動明に対する愛」
  • 鹿目まどかは人類の希望そのものとなったが、ほむらが実態としてのまどかを求めてしまう。 → イノセンスでバトーが裸の素子(実態はない)に上着をかけるという執着。
  • もともと "愛" はキリスト教や仏教では全人類的なもので、エゴイスティックな "愛" という概念が出てきたのは近代以降。前者は自愛、後者は恋。
  • まどか = コスモス(宇宙の法則、秩序)、ほむら = カオス(混乱させてゆくもの)
  • 虚淵作品「人間の中から生まれた要因でいつの間にか人外になる(神のような存在になるしかない)」、押井作品「最初から外部化している、"叛逆"はしない」
  • ほむらの"叛逆" → 失楽園における「エデンの園は嫌だ」からの人類の始まり。アダムがエデンの園から出ることを差し向けたのはサタンであって、サタンになるのはほむらという点で両作品は繋がっている。
  • 近代以前の人間は人生で進化をしない、100年後の世界を想像できない(変化するという発想がない)、"ループ"が当たり前。

脚注

  • 1.

    ただし新房監督への言及はほとんどなく、実体としては「押井守監督、虚淵玄脚本のアニメを語る!」でした。 ↩ 戻る

  • 2.

    この話はお流れになったとのこと。 ↩ 戻る

  • 3.

    前作品である「GHOST IN THE SHELL」についてもそこそこの時間が割かれた。 ↩ 戻る